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アフィヨン大学の彫刻の教授来訪。
トルココーヒーと出来たての売り切れ御免のトルコの名店の菓子を頂く。 二ヶ月間の中国滞在で作品制作の予定。 工場長も途中から合流。 塑彫磁廠内の民居庭先で田舎料理の会食後工場長宅も訪問。 家蔵の油彩を気に入った様子、北京の知人の画家を紹介することに。 工場長は教授の作品を気にいったようで、今回の中国滞在で製作する 作品を買い取ることに。小雅招待所に展示されるであろう。 12月トルコに招待されたのでイスタンブール、コンヤ、アンカラと訪問予定。 PR |
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責任感と同じ。景徳鎮では責任心のほうを多く聞く。
景徳鎮人の責任感の欠如は半端ではない。 およそ物ごととは達成できないためにあるのだから 目先数分以内のことに熱心に関わるのは確約が無いから意味が無いと言う 感覚だ。 頼んだことは即座に守られない。 契約と言う概念はほとんど意味が無い。逃げておしまいだからだ。 例えば警察。 事件が起きても殺人以外はまず動かない。 泥棒や詐欺を捕まえても得点にならないし、疲れるよりはマージャンした り、タカッタ金で愛人と贅沢に暮らしていたほうが楽なのである。 だから事件に巻き込まれた人は予算が釣り合えば漸く警官に賄賂を払って 動き出してもらえる。 彼らには社会とか公とか他人とかは一切関係ない絵空事の世界なのだ。 有るのは目先の自分にどれだけ利益の供与が具体的に明確に存在するかである。 箸の上げ下ろしも全て目先の損得で一円二円まではじいて決めるほど吝嗇でもある。 だから日本の100分の一も他人に何か期待してはならない。 もらえる金以外のことで、出なかった携帯が折り返し当日かかってくるだけで有難いと思わなくてはならない。 そう言う土地柄で人を使って分業体制を敷いて良い製品を作ることが 如何に神経が破壊される行為であるか想像できるであるか? 札びらで職人の顔を叩いて悦ばせながら適当なものを沢山作らせて客に適当に言って売る連中以外この町では大成功はできない。 増益を追求せず手作りでいいものを手間暇かけプライドをっ持って作るなど、景徳鎮人にはヒアリングできない程通じないのだ。 始めは私の発音が悪くて、聞いても分からないと言われているのだと思ったがそうではなく概念が既に論外なのである。 宇宙人が突然来て全く違う次元の法則を話しているのと同じことだ。 良心ある経営者や外地から来て商売している連中は「景徳鎮で最大に問題なのは低民度より蔓延する無責任だ」という。 従業員の人選に何年もかかる理由がここにある。 |
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「工人」gong ren
「打工的人」da gong de ren 景徳鎮普通語でこの言い回しも多い これは読んで字のごとく擅長つまり技に長じた「工の人」と捉えそうになる。とりわけ景徳鎮の工房で働く人を見ると、直接「職人」と訳したくなる。 景徳鎮の工人の工は「手間」というニュアンスが強い。 日本人が匠から連想しがちな「工」の精巧、精緻という意味とは感覚が少し違う。 精巧精緻なら、工巧、工整、工細という普通の言い方があるが、 この手間というニュアンス、例えば絵付けの細かい物は「工重」gong zhongと言われて工人からは嫌がられる。 哎哟,老板 goga(おそらく這箇) 画面工太重,画别的可以(恐らく不了)bula?(景徳鎮人に方言の表記を聞いても誰も答えられない) (あいや~、旦那、この絵付けは手間が多すぎる、他のじゃ駄目かい?) 一个工给多少钱?と同じ工のニュアンスだと言うことだ。 だから日本における職人の概念で匠の人、「工人」を雇うととんでもないことになる。 また「工人」は「労働者」「従業員」というニュアンスが強く、社長が職人を指して労使の関係から「工人」と言う場合もあるが、そのほとんどは言われたことだけに労働力を提供する「労働者」「苦役人夫」としての扱いとなる。 あくまでも工人の場合、労働者が些か絵付けができたり、轆轤がひけたりと言うことだ。そこには尊敬が無い。 分業制が早くから極限まで細分化された景徳鎮では分業を「分工」fen gongと言う。 伝統的にはそれぞれの職責の中で「師傅」shi fu(親方)と「徒弟」tu di 弟子に分かれていた。単なる徒弟制度の関係もあるが、雇われて来ていることもある。(臨時工)職人的存在があったとすればこの辺の人たちまでなのだ。 しかし共産党により工房の大規模国営化が勧められた段階で、旧制度は大規模に組織編成をされて、一部の親方を除きそのほとんどと徒弟以下は 「工人」(労働者)にされてしまった。 与えられた仕事を時間から時間、だらだらやっても何も変わらない日常。 ただでさえ怠け者の土地柄に、国営企業の観念が入り込み、職人は一切仕事に対し熱意も追及もしなくなってしまった。 非常に無気力、無責任、利己的で仕事に対する一切のプライドや責任感が無いのが「工人」と理解して差し支えない。品質が悪くても売れないのは販売部門の責任で自分たちは時間内仕事場で仕事したというのが基本的な考え方だ。 それゆえ優秀な指導者が四六時中見張らないと何も製品になるような物はできてこない。 それでは日本的に考える職人は存在するのか? 俗に言う職人気質と言うやつだ。 これはある。 一部の「師傅」の中と一部の師傅、徒弟出身経営者がきわめて 職人的な体質を持つ。しかしそれとて倒産させてはならぬと言う危機感から出発した実利的発想が中心で、何事も出発点は利益のための切磋琢磨である。今回はこの辺でいいという考え方で段階を踏んで向上してゆくので決してものづくりだけで生活が困窮することは無い。 それゆえ海外から景徳鎮に来て「工人」を雇って工場を開く人はほとんど失敗する。それぞれの分業単位でそれぞれ連携がなく無責任な仕事の押しつけで結局何もでき上がらないのだ。 職人という概念が違うことが理解されないと仕事を任せてもとんだ目に遭うだけである。 工人は手間の人、人夫であり決して職人ではない。 そこには職務に対する良心、規範性、精神性も哲学も存在しない。 有るのは疲労と時間と手間賃の概念だけだ。 いいものを作るのは工人ではないことをお分かり頂きたい。 |

