忍者ブログ
  • 2026.08
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 2026.10
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2026/09/18 07:22 】 |
ついに出来。自家製の薪焼きの景徳鎮。



私も自ら焼き、構図を書き入れて作らせた最新作の最高級品です。窯作りから始まり、苦労しました。景徳鎮でも皆驚いています。昔のものそのものです。
PR
【2012/07/30 13:00 】 | 中国茶器 | 有り難いご意見(1)
唐子


嬰戯図、俗に日本で言う唐子の図である。

いかにも中国の子供らしいが、北京や東北、上海の子供を見てもピンとこない。

しかし景徳鎮の街をゆくと、「あ、ほんとに唐子だ!」と思わされる子供で溢れている。

そして彼らは本当にイタズラっ子で遊ぶのが大好きである。

景徳鎮の絵付けの子供たちは実に生き生きしているが、温かな親の眼差しと子孫繁栄への祈りに磨かれてきた図案なのだ。

よく見て比べて欲しい。日本の様式化してしまって安物に成り下がった唐子と。

ものをよく見ないで安っぽい先入観とかで「ああ、唐子、安物ね」とコメントする人をたくさん見た。

日本でだけ見る現象だ。

中国が量産安物とか言われる筋合いはない。

その前に日本の窯業地が全国民そんなイメージを持つほど安物ばかり作ってきたのではないか。

日本のパトロン層も愛人と骨董屋ばかり食わせてないで、職人でも養ってみればいい。

ポーンと札束積んで、「どうぞ好きなもの存分にお作りなさい」って。

唐子の最高の名手は景徳鎮の王小妹である。

しかし彼女はもう描けなくなった。

愛情がついに生まれた本物の子供に移ったのである。

作品と人は一体である。

人を育てなければいいものはできない。

日本が駄目になってきているのは人を育てる人たちがまず間違っているからである。

日本が再生するには不適格者の職場追放も厭わない気概が必要だ。

まずは永田町から。




【2012/07/28 14:19 】 | 景徳鎮よもやま | 有り難いご意見(0)


山に行くことが多くなった。

景徳鎮付近の山地は日本にとてもよく似ている。

ある日私が景徳鎮から帰ると、祖父が言った。

「はじめて江西省に入ったときああ懐かしいと思った。まるで田舎の山間でも散歩しているような気がした」

北はノモンハンから、南は桂林まで転戦した祖父は最後は湖北あたりで終戦を迎え、景徳鎮の隣の九江で武装解除のうえ一年間国民党の管理で抑留となった。
抑留とはいっても、それはキャンプを張っただけで、国民党軍からは安全を保証され、周辺の村にも出入り自由で、地元民たちと自由に交際があった。物資が不足していた村には軍需品を分け、村人からは食品など交換してもらっていた。昼は野球に興じ、夜は同人誌の執筆など、久しぶりに生を謳歌した一年をこの江西省で過ごした祖父の江西省に対する懐かしさは相当深いものがあった。

朝目が覚めると、自分がどこにいるのかわからない時がよくある。

自分が誰で何をしているのか数十秒よく整理できないのだ。

これは津波のあと顕著になった。

移動がおおい生活で仕方ないと思ったがそれでもどこも安心がない生活をしているから

そんなことなんだろうと悲しく思った。

安心というのは生きてきた証に囲まれていることかおしれない。

街も流れ人も散り、子供の頃日を送った懐かしい品々や東京から一時保管していたものが全て流されて無くなった。

リスクを分散して分けていた宋琴や中国書画コレクションだけが無事だったが、私の軌跡ではない。実家のものすら無理やり新しいものと全て交換させてしまったので
親も迷惑だったかもしれないが、私もアルバムから何から思い出のあるものを流されて
親しみのあるものがなくなってしまったことがどういうことかよくわかった。
ものはものであるが、同時に人と過ごした思い出が詰まっている。
一人でコレクションしたものより家族で長年ながめたり使い込んだものがとても愛おしいいことがわかった。

国破れて山河あり、懐かしいものは山の稜線だけになってしまった。

景徳鎮の夏の山を見上げると何だかとても懐かしい気がする。

子供の頃見た山にとてもよく似ている。

あの山を越えると海と街が見えて、お祭りがあって、祖父や祖母が出迎えてくれるのだ。

懐かしい人たちがみんな暮らしているのだ。

だが現実はどこまで越えても山並みが続き、誰もいないのだ。

懐かしい人々はその写真すらもなくなっているのだ。

また一層人々の記憶から遠くなってゆく。

私だけでも生きている間事細かにあの人たちのことを覚えていてあげたいと思った。

奇しくもそれは祖父が戦地での多くの離別に臨み死ぬまでずっと抱えてきた思いであった。


あと半歩先を歩いていたら弾に中って死んでいた。そして目の前でさっきまで笑っていた戦友が血を吹き出しながら即死している。

玉砕の南方に点々と送られてゆく仲間。満州に置き去りにされた懐かしい人々。
ようやく博多までたどり着いて息絶えた人。

土匪化した中国軍に焼き討ちされ恐れおののく中国の村人。

頼りない、今にも消えそうな命と命の触れ合いは小さな炎だがその一瞬とても強く燃えている。それだけに記憶も鮮明だ。


私も今振り返れば何度かその火が消えかかった。

津波の直前、あの数秒で直進した人は皆流されて死んで、対向車の切れ目から山側の道に避難できた者だけが助かった。山に逃げる途中、海に向かって形相を変えて走ってゆく車とすれ違った。「バカ野郎、行くな!」と叫んだが聞こえない。「なんで死ににいくんだ!」

燃え盛る街と寒波。救援が来るまでの困窮と、鬼畜と化した人々。

あれはなんだったのだろう。

静かに再び山を見上げると、やはりその向こうには懐かしい人たちが皆笑顔で暮らしていて、私がいつかその山を越えるとき、きっとまた会えるに違いない、そんな気がした。


悲しい時勢に同化、妥協できないのが宿命である。

苦しくても悔しくても生きるだけ生きて、いつか必ずあの山を笑顔で越える日を迎えたい。




















【2012/07/28 07:50 】 | 本日の活動 | 有り難いご意見(0)
夏の日の思い出


景徳鎮も9月まで長い夏休みが続く。まだ半分ある。夏休みは人生と同じ、所詮何もないのだが、少年の心はいつも何かありそうな期待感と不安感が入り混じっている。
何か冒険がありそうで結局凡庸に何もないのが人生である。
保身慣れした身は時に夏の夢見がちな少年をみて懐かしく思うのだ。
隣町に歩いてゆくような小さなことでも子供の頃は大変な冒険したようで
夏休みが明けると何か違った自分がいた。
友達もなんか顔が違ってきていた。

子供は小さな冒険をしながら「当たり前」を身につけてゆくものだ。

それを姑息な保身ばかりに生きる教員や親が許さぬから、まともなプロセスを踏んで
男が育たない。

冒険がいつの間にかいじめや自殺になってしまった現代。

夏休みぐらい宿題なしでわんぱくに過ごしてもらってはどうか。







【2012/07/26 09:29 】 | 景徳鎮よもやま | 有り難いご意見(0)
おじいさんの家

水車小屋を守ってきた斉老人の家。土壁に瓦が剥き出しの天井の民家。おばあさんが亡くなってからだいぶ経つ。息子たちは隣りに新しい家を建てたが、不便でも、父親が建て、自ら育ち、おばあさんと共に子供たちを育てあげたこの家に昔ながら住むのがいいのだという。蝉時雨の午後、団扇を手に開け放した木戸から静かに陽炎の揺らぐ小道を眺める老人。まるで懐かしい誰かを待っているかのようだ。長く生きていると、たとえそこにいまなくとも、いろいろな人やものが見える。私も少しそんな感覚が芽生えてきた。ただ忙しない日本の今の老人にはなりたくないものだ。息子の来客のために大変親切にいろいろ語ってくれるその背景に、息子も含め私たち後輩へのあたたかい眼差しがある。かと言って年長者の偉ぶったところもなければ、羽振りよい我々に卑屈なところもなし、見栄をはるわけでも自己顕示欲があるわけでもない。日本の60代、70代男と全く違う。淡々として自然なのだ。そして何より足ることを知り、善良なる人生への自信に満ちている。肩書きがあろうが無かろうが人の厚みは変わらない。おばあさんもきっととてもいい人だったのだろう。仕事を辞めてすぐボケたり、奥さんが亡くなるとすぐに死んでしまうような日本の男はきっと地に足のついてない生き方をしてきたのだろう。世間ではよくあることと思っていたが、それは間違いだと老人を見てそう感じた。すべてのはじまりは中庸である。
【2012/07/26 08:58 】 | 景徳鎮よもやま | 有り難いご意見(0)
<<前ページ | ホーム | 次ページ>>