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【2025/05/20 21:25 】 |
景徳鎮発展の背景
景徳鎮窯元の目覚しい発展の背景には共産中国のこれまでの自国文化に対する弾圧、利用の反発、反動が見え隠れする。

私の体験では80年代、90年代を通して文革当時にメチャクチャになったあらゆる情報と体系が鄧小平の改革開放路線、南巡講話をきっかけに堰を切ったように復元され始め、縦令其れが拝金主義の跋扈を招き玉石混交とはいえ大量の書籍が復刊、上梓されるに至ったことで春雨の地を潤すが如く国民の知への渇望を癒し、伝統への回帰を促した。

操作統制は受けても戦前と比べればくだらない情報の有り余る現代日本においては活字、情報への渇望などピンとこないかもしれないが、大東亜戦争時(中国においては抗日戦争であるが、歴史的評価と実質を考慮する)多くの将兵がジャングルの中で食料と共に活字に飢えたという。
中国戦線で転戦した我が祖父も昭和20年8月15日の終戦で武装解除。景徳鎮の隣の、九江市の郊外、周上里という村に国民党軍の管理の下抑留された。その折祖父を中心に同人誌が刊行された。同人誌と言っても物資もなく馬糞紙が一枚のような物にびっしり手描きされたものであったが抑留中の多くの将兵があらそって回し読みしたという。「人は食うだけでは満たされない」ということであろう。

一国両制、共産主義システムから実質資本主義への移行は朝令暮改、三寒四温の如く遅々として進まず、当初は私たちを苦しめた。しかしそれは恰も大陸の季節が嵐のあとに突然一気にかわるように現在の繁栄を齎した。 

90年代前半、出版ラッシュ、情報ラッシュが始まる兆しとして、国営系の古い形態の書店が都市再開発でどんどん閉店、併合されより大きな書店、あるものは大きなブックビルへと生まれ変わっていった。書籍の陳列方法もそれに伴い変化して全集物が店の一番奥へ移り売れ筋のビジュアル的なものが良い場所へずらりと平積みされるようになった。
書籍そのものも藁半紙に毛が生えたような紙に質の悪い印刷だったのがみるみる紙質がよくなり、製本がよくなり、印刷が美術書でも白黒が主流だったのがオールカラー印刷のものなどの比重が増えて行った。

90年代後半に入ると「定番書籍」の焼き直しから新しい著作や海外の物からの翻訳ものやコピーが大量に出回り特に弾圧され破壊された古典文化に関するものが百花繚乱の様相を呈してきた。まずは新印古籍の大量復刊があり、それから簡単な入門書が並び、様子を見て研究書やエッセイが並ぶ。その慎重さも出版が自由になってくると、売名、広告まがいの情報操作などなんでも出てくる。売れればどこの出版社も似たものをだし、海賊版や落丁本が出回る。当然海賊版、落丁本は半額以下で売られるので市民が贅沢な本も享受する機会は間違いなく広がった。インテリ層は若い頃読めなかった物を自由に探し、市民は目新しい情報や、名前だけは聞いたことのある物事にまずは書籍から触れることになる。日本でも庶民はムック本やソノシート、憧れの海外旅行の全集などでしか楽しめなかった時代があるではないか。

書店の巨大化、非正規本の大量流通。著者、各業界の打算、ここに市民の乾ききった知識欲が経済力の上昇と共に一気に反応、大規模な消費をし始めた。それまで外国人と老人ぐらいしかいなかったような格調高い書店に今では子供から労働者の若者まで多くの層が並んでいる。
日本で大卒の初任給1万5千円ぐらいの頃レコードやスーツなど今と価格があまり変わらなかったのを思い出すと状況が想像できよう。

しかしそこは中国人、よく見ると事情はただの贅沢、娯楽ではなかった。

例えば子供の学習熱、進学競争、語学や資格取得などキャリアアップのための書籍に上昇志向の強い市民が群がるのは日本でも別に常態で特異ではない。
が、問題は



 続く
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【2012/07/06 10:46 】 | 景徳鎮よもやま | 有り難いご意見(0)
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