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日本から、ビジネスや交流、教員として景徳鎮を訪れる人は年々増加しているように思う。
私が景徳鎮に長期滞在するようになって20年になるが彼らとほとんど交流することはない。 なぜなら、私はいつでも景徳鎮の技術や政治経済の中心近くにいるのだが、遠くから見て、「ああ、日本人がいるなあ」と思うだけで、彼らはいつも景徳鎮の門前だけ見て帰ってゆく。 とても残念に思うと同時に、些か迷惑な話でもある。 門前だけ見た人間が少し喋り過ぎではないか? 個人の勝手な手前味噌な話で、同胞団を扇動しても何か結実することがあるだろうか? とても日本人らしいのだが、彼らはいつも固まって、年功序列など日本人の秩序の平行移動の中で暮らす。 陶磁器を介在して皆が平等で自由な国際的な環境の中で一見して違和感を放っている。 そして一番の問題は、これも日本人らしいのだが、自分しか頭にない。すべてこれまでの自分の価値観の維持に躍起になり、相手に関心を持たない。わかりやすく例を作れば、ある現地の料理を食べたとする。自分の思っていたものと違う。するとすぐに否定に入る。ここはもとよりこういう味付けだとか、こういった需要や環境、伝統からこういう味付けになっているのだとか楽しんだり味わったりする余裕がない。「まずい」。その一言ですべてが終わってしまい、帰国しても「あそこの料理はまずい」だけで終わってしまう。こういう発想では何も広がらないし、成功しない。 現地の人や社会にも関心がない。関心というよりは違いばかり見て「自分の方が違う」という発想もない。 当然これまた否定的で、時に無理解から人や社会を軽視する。当然、何年いても中国語も景徳鎮語も話せないし 話そうともしない。それでこの国や土地、人々の何がわかるというのだろうか?? 言葉がわからないと、当然通訳を付けるが、非常に残念なことに、これまた傍で聞いていて、役にたってちゃんと通訳しているのを見たことがない。。日常の挨拶の通訳ならいざ知らず、ビジネスやこの土地を知ろうというのなら問題だ。まず日本人はほとんど大学学区周辺に居住して外人や学生とばかり付き合う。通訳も二十歳そこそこの社会的経験も財力もない学生や若者に依存する。この土地で生まれても若者は世間知らずで何も知らないし、経済力がないので、何も見てきていないし、実力者から相手にされてない。そんな通訳を連れて、相手が本当のことを話すと思ったら大間違いである。いつも思うのは若い連中は、私の話していることが理解できない。ということは、景徳鎮で大人の言う話が飲み込めないということだ。もちろんその場の空気も読めない。私の身分がばれると学生は列を作って「世渡り」の教えを請う。その程度である。若者と言わず通訳に地元の第三者を連れ込むのはいいとは言えない。 大人の経験を積んだ通訳+現地の相手と親しい人を間に立てなければどうにもならない。自分で中国語が話せれば全て問題がない。「小僧」を連れてのこのこやってくることが無礼であったり、笑われていることの実感が欲しい。 学生はよくない。学生を通訳に連れているだけで我々は相手にしない。 世間知らずの学生が軽くあしらわれたことを通訳され、そのまま受け売りして喋ったり、適当な若者の「保身的変換」が入り込んだ通訳をそのまま理解するのは危険である。 いずれにしても底辺の景徳鎮だけ見て「遅れている」とか「何か教えてやろう」と思うのは日本人に強い傾向である。 この街に重要工程に建議、参画する日本人がいるのに、その存在を知らない、たどり着けない。 もうこの段階で、景徳鎮の何も知らないことになる。まともな大人の人脈があれば20年もいる私を 誰か訪ねてきても良さそうだが知らない。よほど彼らの活動範囲が狭いのだ。 私は景徳鎮で日本人の誰にも会ったことがない。しかし連中のあの頭では私のこの街での仕事の全体像など想像できるはずがない。名刺もないのだから。きっと脳内では「変わった人」「怪しい人」ぐらいで処理するのだろう。 浅はかである。そんなではここでは人の役にも立てないし、成功できない。早々にこの街からお帰りいただくのがいいかもしれない。 地元の産業の停滞すら手を打てない人が、人の国に来て何を教えようというのか? PR |
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