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「倣古」文字通り古に倣う。
過去の作品の様式を法則として忠実に守ろうとする。 創作とは対極の姿勢が時に芸術家の批判を受け、贋物との誹りを受けることもある。 しかしどんな創作もそれはある基礎の上に成り立つもので、倣古は単に高度な技術の生きた形での温存と考えてもかまわない。創作、非創作、真作、贋作と言った二極的観点で見るべき物ではそもそもない。 小学生の習字が先生の手本をまねるのと同じことでそれが贋作とは言わないであろう。 陶芸世界と倣古世界の不和は景徳鎮には大きな損失であると気がつくべきだ。 上野の山の連中が台東区の職人仕事を軽んずるのを見てもそれが百害あって一利もないことに気がつくべきである。 日本人はなぜかまじめ過ぎてなんでも二極的に善し悪しを決めたがる。 油絵はいいが水彩はダメだとか言う美術愛好家をどれだけ見てきたことか。全く意味が無い。備前はいいが今衛門は外道だとか、私にはよくわからないことを得々と言う人のなんと多いことか。 そこで「本歌」とかなんとか気の利いた言葉を汚らしく引っ張ってきて後進の同じものを作るとことごとく悪し様に言う。 学ぶという言葉は真似から来ていると聞いたことがある。 子は親の姿を学び言葉も自然と身につける。 そこが一段抜けるとどうなってしまうのであろうか? 倣古も高度な技術で作られたものは得難く尊いものである事を再認識すべきである。 景徳鎮で倣古が消えた時、それは即ち景徳鎮が終わったときである。 PR |
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