
水車小屋を守ってきた斉老人の家。土壁に瓦が剥き出しの天井の民家。おばあさんが亡くなってからだいぶ経つ。息子たちは隣りに新しい家を建てたが、不便でも、父親が建て、自ら育ち、おばあさんと共に子供たちを育てあげたこの家に昔ながら住むのがいいのだという。蝉時雨の午後、団扇を手に開け放した木戸から静かに陽炎の揺らぐ小道を眺める老人。まるで懐かしい誰かを待っているかのようだ。長く生きていると、たとえそこにいまなくとも、いろいろな人やものが見える。私も少しそんな感覚が芽生えてきた。ただ忙しない日本の今の老人にはなりたくないものだ。息子の来客のために大変親切にいろいろ語ってくれるその背景に、息子も含め私たち後輩へのあたたかい眼差しがある。かと言って年長者の偉ぶったところもなければ、羽振りよい我々に卑屈なところもなし、見栄をはるわけでも自己顕示欲があるわけでもない。日本の60代、70代男と全く違う。淡々として自然なのだ。そして何より足ることを知り、善良なる人生への自信に満ちている。肩書きがあろうが無かろうが人の厚みは変わらない。おばあさんもきっととてもいい人だったのだろう。仕事を辞めてすぐボケたり、奥さんが亡くなるとすぐに死んでしまうような日本の男はきっと地に足のついてない生き方をしてきたのだろう。世間ではよくあることと思っていたが、それは間違いだと老人を見てそう感じた。すべてのはじまりは中庸である。
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