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日本でのこと
ある有名デパートで欧州の名窯展、即売会が開かれていた。 同時に日本の人間国宝(工房)の磁器をメインに和食器も集結して同じフロアで即売会が催されていた。 テーブルコーディネートの好きそうな女性を中心に、熱心な男性コレクターなど、欧州磁器の余りの人気ぶりに客足がもっていかれ和食器に人が集まらない。 私は和食器のコーナーに向かってみた。同じデパートの中なのだから本来お客さんには全ての品物をお勧めするべきなのだろうが、和食器の仕入れに関わってきたベテラン店員が、和食器を眺めているお客さんに和食器がいかに洋食器より優れていて、洋食器がいかに味気なく量産されたものか説明している。 私はどちらも風格が違うものだからそれぞれ素晴らしいと思うのだが、和食器の店員には自分が何十年やってきた世界での個人の主観的価値観の中でしか物が見られないことが話しぶりからはっきり分かった。 日本で知らんぷりしていろいろな店に入ると、少しでも気を許すとたちまち他所の物が悪いと言う話が始まる。 これは全く間違いだ。 それぞれに物の良さがあり、本来あるべき姿を手を抜いたり歪めていない限りそれはいいものに違いない。 例えば私も辛辣に物を言うが、それは善くないことをしていると言うのであって、個人的嗜好や偏狭な価値観でもって言っているのではない。 例えば宜興の急須を絶対と思って学習させられた連中はそれだけ金科玉条のようにして、他のものを試すどころか視野に入れない。 結果どうしようもない素材や焼成のものを使っていたり、ものすごい教養の無い物を使っていたり(造形に基礎理論の無い急須や、下手な字で馬鹿な言葉が刻んである物など)噴飯ものなのだが当人たちはそれが最高として他を疑って見ようともしない。 結局、例えば景徳鎮の素晴らしいものが出てきても目に入ってこないどころか、根拠のない悪口に走る。まじめ過ぎる裏返しかもしれない。 本物の景徳鎮の土が今でもあると言うのに間違った情報を読んで否定して歩いているような連中もまさしく同様な理由だ。悪気ではないが彼らの「正義」で許せないのであろう。 お茶もそうで最初に刷り込まれた物から抜け出せないでいる人が多い。 最初に悪いものを刷り込まれた人はそれを追求して他を否定して歩く。 どちらも気がつくと声が大きかった人の言うよいものだけになっている。 物に溢れ選択肢が豊かなようで全く選択肢が無い。 これはどうしたことか。 そしていい物は消えて行く。 顧客が自分の目でそれぞれの物の良さを見出せる力があれば問題が無いのだが今の学校の勉強法で養われた思考法では永遠に無理な話かもしれない。まじめに博物館に通ってガラス越しに見たものを学芸員の価値観でじっくり勉強して、他のものを見下しながら憤慨して過ごすしかないのだ。 PR |
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