
山に行くことが多くなった。
景徳鎮付近の山地は日本にとてもよく似ている。
ある日私が景徳鎮から帰ると、祖父が言った。
「はじめて江西省に入ったときああ懐かしいと思った。まるで田舎の山間でも散歩しているような気がした」
北はノモンハンから、南は桂林まで転戦した祖父は最後は湖北あたりで終戦を迎え、景徳鎮の隣の九江で武装解除のうえ一年間国民党の管理で抑留となった。
抑留とはいっても、それはキャンプを張っただけで、国民党軍からは安全を保証され、周辺の村にも出入り自由で、地元民たちと自由に交際があった。物資が不足していた村には軍需品を分け、村人からは食品など交換してもらっていた。昼は野球に興じ、夜は同人誌の執筆など、久しぶりに生を謳歌した一年をこの江西省で過ごした祖父の江西省に対する懐かしさは相当深いものがあった。
朝目が覚めると、自分がどこにいるのかわからない時がよくある。
自分が誰で何をしているのか数十秒よく整理できないのだ。
これは津波のあと顕著になった。
移動がおおい生活で仕方ないと思ったがそれでもどこも安心がない生活をしているから
そんなことなんだろうと悲しく思った。
安心というのは生きてきた証に囲まれていることかおしれない。
街も流れ人も散り、子供の頃日を送った懐かしい品々や東京から一時保管していたものが全て流されて無くなった。
リスクを分散して分けていた宋琴や中国書画コレクションだけが無事だったが、私の軌跡ではない。実家のものすら無理やり新しいものと全て交換させてしまったので
親も迷惑だったかもしれないが、私もアルバムから何から思い出のあるものを流されて
親しみのあるものがなくなってしまったことがどういうことかよくわかった。
ものはものであるが、同時に人と過ごした思い出が詰まっている。
一人でコレクションしたものより家族で長年ながめたり使い込んだものがとても愛おしいいことがわかった。
国破れて山河あり、懐かしいものは山の稜線だけになってしまった。
景徳鎮の夏の山を見上げると何だかとても懐かしい気がする。
子供の頃見た山にとてもよく似ている。
あの山を越えると海と街が見えて、お祭りがあって、祖父や祖母が出迎えてくれるのだ。
懐かしい人たちがみんな暮らしているのだ。
だが現実はどこまで越えても山並みが続き、誰もいないのだ。
懐かしい人々はその写真すらもなくなっているのだ。
また一層人々の記憶から遠くなってゆく。
私だけでも生きている間事細かにあの人たちのことを覚えていてあげたいと思った。
奇しくもそれは祖父が戦地での多くの離別に臨み死ぬまでずっと抱えてきた思いであった。
あと半歩先を歩いていたら弾に中って死んでいた。そして目の前でさっきまで笑っていた戦友が血を吹き出しながら即死している。
玉砕の南方に点々と送られてゆく仲間。満州に置き去りにされた懐かしい人々。
ようやく博多までたどり着いて息絶えた人。
土匪化した中国軍に焼き討ちされ恐れおののく中国の村人。
頼りない、今にも消えそうな命と命の触れ合いは小さな炎だがその一瞬とても強く燃えている。それだけに記憶も鮮明だ。
私も今振り返れば何度かその火が消えかかった。
津波の直前、あの数秒で直進した人は皆流されて死んで、対向車の切れ目から山側の道に避難できた者だけが助かった。山に逃げる途中、海に向かって形相を変えて走ってゆく車とすれ違った。「バカ野郎、行くな!」と叫んだが聞こえない。「なんで死ににいくんだ!」
燃え盛る街と寒波。救援が来るまでの困窮と、鬼畜と化した人々。
あれはなんだったのだろう。
静かに再び山を見上げると、やはりその向こうには懐かしい人たちが皆笑顔で暮らしていて、私がいつかその山を越えるとき、きっとまた会えるに違いない、そんな気がした。
悲しい時勢に同化、妥協できないのが宿命である。
苦しくても悔しくても生きるだけ生きて、いつか必ずあの山を笑顔で越える日を迎えたい。
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