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「衣食の足りぬ」ところに突然の経済発展を見た拝金景徳鎮社会。
外部との接触もなく既得権益の確保と外来の大規模投資の流れに 疑心暗鬼になったりお世辞を使ったり泣いたり笑ったり。 北京、上海人が国際都市の人間に変貌してゆくのとは違って ここの人々は清朝に逆戻りしてゆくようだ。 テレビをつければヒロインは「札びらで顔を叩かれる怠け者のおしんのひそやかな復讐」が基本で日々一円二円の不足で医者が患者を追いだすほど 金以外の価値観の無さに皆が蝕まれ苦しんでいる。 警察が取り締まらないことは(取り締まるまでは)何をしてもいい。 そう言った民度のところに、現金以外正しい物は無いという感覚。 当然食品に毒を入れたり異物を混入しても貧乏よりは心が痛まない。 中国の伝説では人間は女媧氏がある物は自ら捏ねて作り、それ以外は億劫で縄を泥に打ちつけては引き上げ、その泥撥ね一つ一つが人間になったと言う。 前者は徳もありよくできていて、後者は救いようない不出来とでも説明したいのであろう。 前者が49年以降ボロボロに破壊され、残ったこのプラナリアのごとくの後者に支配された所に、急激な改革開放政策で拝金主義が蔓延。 旧社会が営々と築きあげて漸く蚊の鳴くほど存在した家庭や社会の良識や秩序と言った物はまたたく間に毛沢東語録の代わりにカードをかざして行進する「金衛兵」に乗りこまれて徹底的に破壊されてしまった。 皆心の安定を失い、いつも危機感に苛まれ被害者意識から揉め事が絶えない。それを解決するのも資金力のバランスである。 一円でも貧乏な方が黙る仕組みなのだ。 やけくそで「これこそ明快で合理的だ」と軽徳鎮人は語るが 本人たちはこれでいいとは思っていない。 年寄りは旧社会をしるからまだいいかもしれないが 生徒の目の前で教師が親に賄賂を要求するようなこんな社会で 育った子どもたちはどういった感覚の大人に育つのであろう。 金の無い人間は奴隷で自分より金のある人間にはいつも狙われなくてはならない。 一体どこに「心の平穏」と「人間対人間の関係」を楽しむことができるのだろうか? 人の形、街の体裁は似ていてもここは様々なサルが住むお猿街である。 強いサルは他のサルの子供を捕まえて煮て食ってもかまわないのだ。 このまま人の心が破壊されていいのだろうか。 物では満たされたが、心の問題は文革以上の悲惨さであろう。 PR |
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