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今、個人的に欲しいものがある。
香炉である。 琴を弾く時よく琴案に香炉を置いて香を焚く者がいるが、あれはよろしくない。 あんなものは安物のパフォーマンスでしかない。便宜上そうすることはあっても時間と状況の許す限り琴を撫でる前に室内のどこか別の場所に香案を置いてその上に香炉を乗せて誰かに空間を清めてもらう。 誰かにと言うのは、お茶も自分のよく吟味して、塩梅した誰かに入れさせるのと同じ理由である。余程の趣向を凝らした設定下の知音の如くのごく親密な関係でもない限り亭主が自分で多数の客に茶を入れるなど発想に無い。 もっとも人に任せて亭主の会話に終始したところで大方は牛に琴を弾く如くどんな素晴らしい何をどうしたところで所詮陽春白雪に終わる。 それゆえ最近は罪悪感から招かない、招かれないに徹してしまう。 必要に迫られ教えを請うにしても先方のご迷惑を考えると、先方も平素いかばかりのご不満かと思えば尚のこと足が重く、かといって余程の義理に厚く心の清らかな連中でもなければこちらが労を折ることももはや気がすすまない。 こりごりとまではいかずとも当節全く人付合いの難しいことと言ったら。 こんな会話が中国の友人たちとの茶席で最近でた。 その友人の中にA女史がいる。 彼女は平素西湖の畔の山中の草庵で陶芸をしながら静かに暮らしている。 物静かだがいつも目が躍動的に輝いていて好奇心旺盛で何を話しても会話が滞らず楽しい。 草庵では余暇に香や簫を楽しんでおり、香炉の製作に日夜励んでいる。 作品は売りに出したことはないと言う。 その作品が本人は謙遜するが実にすばらしい。 発展途上であるのは確かであるが、他にない失われた古典的中国の フォルムを持ち合わせている。ちょうど私の南宋の琴や戦国の帯玉のような永遠を封じ込めた緊張感と美しさに溢れている。中庸が形になったようだ。景徳鎮で偶然出会った奇蹟的な二人の芸術家のうちの一人がまさしく彼女であった。 そんな彼女が作った香炉で室内を清められたら何と幸せなことか。 たまに本当に欲しいものができるものである。 子供のようにねだったら、売り物でも他所様に差し上げる様な立派な物でも無いと軽くかわされた。 そうしたところがまた作品に横溢していてたまらない魅力なのだ。 秋から彼女は私の琴の生徒の一人になる。 もちろん学費などとらない。 呉曙海先生も私から一銭も受け取らなかった。 私も同様、彼女が気に入ったので呉先生から受けた教えを そのまま教えたいと思う。 いつかきっと素晴らしい香炉がひょいと現れることを祈りたい。 PR |
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