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最近外国人の仲間の間で、景徳鎮でちょっとした不快な目に合うと「想法不一様」と言って肩をすくめて笑うのがちょっとした流行りだ。
同行の中国人は何が違うのか、何が不快なのか、考えても分からない。 なぜなら中国人だからだ。 トルコ人の家を訪問した。 国の母親から送られてきたトルコの食品が満載だ。 「TAKARADA SANどうかもらってください。」 大きなスーパーの袋で一つ貴重な食品を渡された。 「いや、私は豚も食えるし、だいいちお母様がせっかくお送りくださったのだからあなたが頂きなさい。」 そう言うと 「私の愛する母が送ってきたからこそあなたにも差し上げたい」 「ああそう、それなら有難く頂くよ。」 ご存知のようにトルコは食品は決して安くない。 しかも航空費がかかっている。 それでもトルコ料理が好きな私だからと 送られてきた半分近く分けてくれた。 「もし日本人ならあなたのような心地の良い贈り物は期待できない」 「何で?」 「義理で要らないものを物々交換のように回してくることすら平気な人たちは義理の体裁だけで動くからね、分かる?トルコ人は?」 今回もお買いものくださったお客さんの梱包に隙間があるとき、適当に手近にあったお茶など詰め込んで発送している。 大多数のお客さんは何か入っていたことを純粋に喜んで下さるので有難いのですが、中には、サービスをつけても当たり前なほど儲けているのだろうと逆算して勘繰る人が日本人には後を絶ちません。 きっとなんでも現金なそう言う家庭環境で育ったのだなと思います。 こちらはただただ遠いところから注文下さったので少しでも現地の空気に触れていただければと願って、輸送、梱包の安全な範囲でおまけのように手元にあった物を相手の好みなど想像して入れているだけで、商売とかそういう範疇で入れているのではありません。 お茶でも何でも贈答で倉庫が要るほど頂きますので気になさらないでおすそわけと思ってください。 寸志と言うことがありますが、寸志すら出し惜しみしたり警戒して拒絶せざる得ない日本の当節の風潮に抗議します。 トルコ人とそんな話をしたら、 「想法不一様」と言って笑いやがりました。 ちなみにトルコ人の母親の愛情をおすそわけ頂いた私は、 速攻義理で何かお返ししたりとは考えてませんが、 トルコ人の母親が、遠くにいて手が届かない、してあげたくても 息子にできないことを考えて、それが実現するようにトルコ人と付き合っています。 PR |
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戦中孤児時代、同じ四合院に寓居する古琴大師、管平湖先生に引き取られ育てられた現代中国の著名芸術家、萧墅先生。先日北京で張兄貴から先生が最近行方が知れなくなったと聞いたばかりだったが、先生が景徳鎮の展覧会で詩を残されていたことを知った。
20代の初め、如何にも鬼才風の先生とよく北京の琉璃廠の路地ですれ違ってとても深い印象がある。そして何よりあの管平湖先生に育てられたと言う伝説が深い興味を抱かせた。 琴、詩、書画、刻字などあらゆることに精通した人々の中で育つとどういう人材になるか。 題瓷芸展 中洲蘊絶芸 国風茫昆倉 陶史縁翰墨 瓷銘光祖魂 1991年、北京の中国工芸美術館で開かれた景徳鎮現代陶磁芸術名作展を観覧後感想を署名とともに残した詩。 詩の出来はともかくこういうことをさらりとその場でしてくれると言うのは嬉しい。 お茶だの中国茶だのやって得意げな人でうちに来てこんなことしてくれた人は見たことが無い。共通言語も無ければ話題も合わない。 素晴らしい一級の絵画も書も気に留めず、お茶を何種類飲んだとか、何回中国に行ったとか、資格試験に幾ら払ったとか、そんな話は沢山である。 使ってる官窯の茶碗にも気がつかない。 満開の香りで選んだ中国バラの鉢植えを50鉢も用意して香りを楽しんでもらおうと戸外で茶を入れたら、家で茶碗を見せられなかったと悪口を言われるしまつ。 教わりながら客面で言いたい放題。果たして客の資格もあったか、幾ら使って何を言いたい放題してきたか恥の上塗りのような連中に物を売ってきた10年は惜しくてならない。 |
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景徳鎮の街を歩いていると子供の顔が日本でなじみの唐子の顔形であることに気がつく。大きくなると世界共通今時の若者なのだが、中には恐ろしいほど「昔の顔」の様な人がいて、こういう顔がモデルとして本当に存在したのだと驚かされる。
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