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釉薬を掛けて焼き上げた、絵付けのない白いままの器を「白胎」という。上絵付けの前にアンダーグレイズで器の底に工房銘や各種款だけ入ったものもある。「底款白胎」
真っ白のものは「白胎」だけで通じる。底款は大体が青花で行われるので、「青花款白胎」でも通じる。上絵工房に向けて白胎だけ作る専門の業者もいるし、問屋もある。白い器屋である。しかも白い器も新旧各年代が揃っていたり、高台だけ出土した昔のものをつないで焼き上げたものなどものすごいバリエーションがある。それぞれの時代を専門にした白胎屋の層は厚い。素材から焼成方法まで様々である。 釉薬をかけていない素焼きのものは「素胎」という。 倣古と贋物の狭間で扱いは難しい選択を迫られるものであるが、こうした世界の連中がいることで景徳鎮のコアな伝統技法が維持できているのは確かである。 PR |
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http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120812/wlf12081218010021-n1.htm
日本の記事から。 模写に対する拒否感と創作現場の実力低下。 |
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景徳鎮ではいい仕事をしているメーカーや営業成績の良い工房ほど
ホームページや店舗が無い。 これは海外の常識とは全く異なる。 派手な店舗展開やホームページを開いている連中は大体にして土産物レベルの量産品か実力の無い工房の物がほとんどである。 いい物は当然数が少なく、窯開けと同時に行列する業者や個人客に一瞬にして買い取られてゆく。 これが景徳鎮スタイルの真実である。 中には窯ごと囲われて生産している所すらある。 宣伝も営業もいらない。 窯元は窯さえ開ければ後は顧客が一緒に茶をすすり談笑しながら つれてきた使用人に梱包させておしまいである。 情報公開せず窯や倉庫から直接販売するこの方法は生産でも使う 「封閉式」という売り方である。これらはよしんば店舗があっても鍵がかけられて開いている例は無く、良くて入り口に連絡先など小さなメモなど貼り付けてある。しかし小雅はじめ一見で連絡先が手に入ることは至難である。 情報公開せず販売するメリットは景徳鎮独特のものであるがおよそ外国人には理解しがたい。 ①腐敗避け 官僚や警察、税務署職員など腐敗分子によるゆすりたかりのリスク軽減。 ②黒社会避け 官僚、警察に雇われた、または独自にゆすり行為を働くやくざのリスクを回避。組織前線の攻撃担当者は薬物中毒にさせられており、命知らずが続々供給されているので争うだけ無駄である。 ③泥棒避け 泥棒が顧客を装って下見に来るので住所は公開できない。 倉庫の南京錠が連日何個も切られているほど景徳鎮の窃盗団は激しい。 ④同業のスパイ避け デザインから新商品までたちまちコピーが出る景徳鎮では現地人を閉め出して販売する必要がある。当然市内局番の電話番号は着信拒否設定になっている。 ⑤職人避け 職人が製品が店頭で販売されている価格を見て、自分にも分け前をよこせとか、給料を上げなければ明日から来ないとかごねだすことが多いため、職人は全て販売ラインと接触できないようにしたり、給料の違う職人同士が接触しないよう手配しなくてはならない。 仕事のレベルで工賃が違うと言うことはこの町では通用しない。 たちまち紛糾する。 賃金の低い方のは上と同じ賃金を出せとごねて、賃金の高いほうは、下のほうの賃金を見て、自分ももしかしたら賃金を買い叩かれているのではないかと騒ぎだす。 工房も店舗も封鎖して社員すらそれぞれの部署の所在を知れないよう展開しないと内部分裂する。 ホームページが無くてこれまで随分日本でうそつき呼ばわりされてきたが、私がどうのと言う問題ではなく、景徳鎮がこうなのである。 どうしても自分の常識以外認められなくて文句がある人は、一度景徳鎮の公安局にでも行ってごねてぶち込まれて見ればいい。 人の苦労を知らぬものは口では上から何とでも言えるものである。 |
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「倣古」文字通り古に倣う。
過去の作品の様式を法則として忠実に守ろうとする。 創作とは対極の姿勢が時に芸術家の批判を受け、贋物との誹りを受けることもある。 しかしどんな創作もそれはある基礎の上に成り立つもので、倣古は単に高度な技術の生きた形での温存と考えてもかまわない。創作、非創作、真作、贋作と言った二極的観点で見るべき物ではそもそもない。 小学生の習字が先生の手本をまねるのと同じことでそれが贋作とは言わないであろう。 陶芸世界と倣古世界の不和は景徳鎮には大きな損失であると気がつくべきだ。 上野の山の連中が台東区の職人仕事を軽んずるのを見てもそれが百害あって一利もないことに気がつくべきである。 日本人はなぜかまじめ過ぎてなんでも二極的に善し悪しを決めたがる。 油絵はいいが水彩はダメだとか言う美術愛好家をどれだけ見てきたことか。全く意味が無い。備前はいいが今衛門は外道だとか、私にはよくわからないことを得々と言う人のなんと多いことか。 そこで「本歌」とかなんとか気の利いた言葉を汚らしく引っ張ってきて後進の同じものを作るとことごとく悪し様に言う。 学ぶという言葉は真似から来ていると聞いたことがある。 子は親の姿を学び言葉も自然と身につける。 そこが一段抜けるとどうなってしまうのであろうか? 倣古も高度な技術で作られたものは得難く尊いものである事を再認識すべきである。 景徳鎮で倣古が消えた時、それは即ち景徳鎮が終わったときである。 |
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